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2014年9月3日水曜日

一人一言113

宝塚歌劇団などの少女歌劇は女性同士による「公開恋愛ごっこ集団」である。



理由

wikipediaのなかの宝塚歌劇団男子部によると。

宝塚歌劇団創設時から、小林一三には「国民劇」という構想があった。それは西洋の題目のみならず日本の時代劇なども、西洋風のメロディーで展開する物であった。宝塚歌劇団に男性団員を加入させるという案は二度に渡り実施されたが、いずれも周囲の反対により立ち消えている。
1919年(大正8年)、宝塚音楽歌劇学校に選科を設けて第一期と第二期の計8人の男子生徒を入学させたが、10ヶ月後に解散している。第一期には堀正旗、後に新国劇の辰巳柳太郎、藤原歌劇団演出家の青山圭男、第二期には白井鐵造、岸田辰彌がいた。第二次世界大戦後の1945年11月に1名と12月に4名が第一期生、1946年3月に第二期生3名、1947年4月に第三期生5名、公募により宝塚歌劇団に特設された部署に男子生徒が計13名入学した。各期3年にわたり声楽、日舞、バレエ、演劇のレッスンを経た後のデビューを目指した[41]。しかし、女子劇団員やファンらの反対により、最後まで本公演には出演することはなく陰コーラスを歌ったのみに留まる。他に1947年12月に女子団員1名と共演し宝塚中劇場でオペレッタ「さらば青春」を上演した。1952年1月に第四期生12名が採用されたが、前年の「虞美人」の成功で女性だけでもレベルの高い演劇を生み出せる事(←だったら女性歌劇団と男性歌劇団に分けろよ)が改めて確認されたために、小林一三は男女共演の宝塚から元の女性だけの宝塚歌劇に復帰させて[41]、最終的に1954年3月、解散となった[42]。同期の女性がスター街道を歩むのに、男性に宝塚では活躍の場が無く、それまでに辞める者も出て、残っていた男子劇団員のうち7名は宝塚新芸座(軽演劇)に専属座員へ移籍し演劇活動を継続し、他の6名は北野劇場ダンシングチームに専属になった[41]。その一方で芸能界から引退し、宝塚にいた頃の事を秘密にしていた者も多かった。男子部出身の有名人としては、2期生に西野バレエ団創始者の西野皓三、4期生にはのちに写真家になった矢頭保らがいる。
2004年に演劇ジャーナリストの辻則彦により男子部の足跡を追った本『男たちの宝塚』が出版され、それをもとに2007年に劇作品『宝塚BOYS』が全国で上演され、2008年と2010年と2013年にも再演された。


原因は男性差別なんですね...。

普通だったらありえないどころか男性だけの劇団も出てもいいんだけどね。

戦国時代から現在まで世界一女性が優遇されてる国のみが生まれてからの産物だからな。
しかもその時代、男尊女卑の教育が普及されているにもかかわらず。

「嫌なら解散しろ!」と言いたくなるね。


ちなみに男性だけの劇団土地バブル全盛期からの設立なんだけどね、皮肉だわ。

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